ルソーの『人間不平等起原論』をシンプルにまとめてみました。
詳細解説はこちらで行いました → ルソー『人間不平等起原論』を解読する
目的
人間社会に不平等が生まれてくる構造についての仮説を置くこと。
結論
最終的に不平等は、絶対君主を頂点とするスーパーデカいピラミッドに行き着く。しかし君主が君主なのはただ強いから。もっと強い者に倒されても文句は言えない。なぜなら絶対君主の存在そのものが、人びとが国家を作る目的、すなわち自由を維持することに反しているから。
それでは以下、本文について見ていきます。
本文
ここで示すのは仮説
いくら不平等の起原について考察するといっても、動物的なヒトの段階から考えるわけではないし、神が人間を造ったとも考えない。代わりに、昔の人間が現在と同じような構造であって、2本の足で歩き、手を使い、自然に目をやり、空の広さを測っていたと想定する。
その意味で、以下で示すのは歴史的な真理ではなく、条件的な仮説にすぎない。キリスト教も、人間が自分たちだけで存在していたらどうなっていたかについて論じることまでは禁じていない。まさにこれこそ私が本論で行おうとしていることだ。
われわれがこの主題について追求できる研究は歴史的な真理ではなく、ただ臆説的で条件的な推理だと見なさなければならない。
もし人類が自分だけですておかれたとしたら、彼らはどうなっていたろうかということについて、人間とそれをとりまく存在との自然〔本性〕だけをもとにして推測を立てることは、宗教もこれを禁じてはいない。これこそ私が求められていることであり、私がこの論文で検討しようとしていることである。
当然ですが、ルソーの時代に進化論はありませんでした。人間は神の被造物である。これが当時の常識的な考え方でした。
問題にしたいのは社会的な不平等のほう
以上の前提に基づくと、人間は本来相互に平等だ。
とはいえ、人間には身体的な不平等がある。年齢や健康の差は自然にそうなっているとしかいえず、基本どうすることもできない。なのでここで問題にしたいのは社会的な不平等のほうだ。なぜなら社会的不平等は政治的な不平等であって、合意によって定められるものだからだ。
社会的な平等が失われている。その理由は人間が生活の知恵を付け、住まいを得ることにある。これにより人びとの間の差異が次第に拡大してしまうのだ。
社会的な不平等が生じるまで
住まいを得る以前、人びとは健康で、平和な心をもっている。そのため争いは起こらないし、誰かが誰かに従属するようなこともない。
自然状態の人びとには憐れみの情(憐憫)が備わっている。私たちが苦しんでいる人びとを助けようとするのはこの感情のため。憐れみの情は自然状態において法律や習俗の代わりをする。
ここから、以下のような流れで、社会的な不平等が生じてくる。
- 自分の生存の配慮
- 初めの感情。人間は個々で生きていて、まだ家族はない。
- 生活の知恵
- 自然の脅威を回避するため。
- 自尊心と競争
- 「オレたちは動物とは違うのだ」という自尊心を手に入れる。人間同士が相互に争い始める。
- 契約の概念
- 争ってばかりではどうしようもないと考えるようになる。競争と利害関係を区別し、契約(約束)の利益を知る。
- 家族と私有財産
- 道具を使って小屋を建てる。これが家族の起原。同じ時期に私有財産が導入される。
- 共同体と分業
- 共同体が生まれる。尊敬を受けることが価値あることになる。これが不平等への第一歩。
- 分業が平等を破壊する。平等の代わりに貧困と不平等が現れてくる。
初めの感情が自己の生存に関するものだとする指摘は、意外に大事なポイントです。なぜならこの指摘は『社会契約論』での社会契約と一般意志の概念にダイレクトに結びつくからです。もし人びとの根源的な感情が憐れみの情であると考えていたなら、わざわざ契約の概念を打ち出すことはなかったはずです。
強者と弱者の争い
不平等の次に現れるのは無秩序だ。
強者と弱者は「え?力が全てでしょ?」と、自分の力を、何かを手に入れる権利と同一視するようになる。こうして横領や略奪が現れ、もとの所有者との間に争いが生じ、社会全体が闘争状態になってしまう。こうして無秩序が生じる。
強者が都合のいいルールを作る
強者は無秩序が自分たちにとって都合が悪いことを知る。そこで強者は弱者に、自分たちに都合のいいルールを教え込む。こうして法律が生まれる。法律は強者の側から置かれるものなのだ。
法律によって強者と弱者の格差が固定化される。自由が打ち砕かれる。ごくわずかの強者のために、弱者は貧困に縛りつけられる。
政府を作るのは自由を守るため
ここで、社会がどのようにして成立するのかという地点から考え直してみる。
社会は約束(暗黙の了解を含む)によって成立する。各人は約束を守ることを相互に同意する。しかし約束は結局のところ口約束でしかないので、必ずズルをするひとが出てくる。これに対処しなければならない。
そこで人びとは、ある特定の人たちに、自分たちの議決を守らせる役割を委任するはずだ。こうして政府が成立する。約束に実質的な効力を与えることが政府の働きだ。
その意味で、人びとが政府を置くのは、決して強者の奴隷となるためではなく、自分たちの自由を守るためだ。このことは一切の国家の法における、最も重要な構えだ。
人民たちが首長を自分たちのために設けたのは、自分たちを奴隷とするためではなく、自分たちの自由を守るためであったということは異論のないところであり、またそれは、一切の国法の根本的な格率である。
なので専制政治は根本的に不当
このことから、専制政治はその初めからまったく不当であり、非合法だと言わなければならない。これは社会における法の根拠にも、社会的な不平等の根拠にもならない。
君主も力で倒される
専制君主は、ただ強いから君主であるにすぎない。彼が君主なのは強い間だけであって、力を失えば下克上の餌食となる。これに君主は正当な根拠をもって反対することはできない。なぜなら専制君主の存在そのものが不当だからだ。
ただ力だけが彼を支えていたのだから、ただ力だけが彼を倒させる。万事はこのように自然の秩序に従って行なわれる。
まとめ
最後にポイントをまとめておきます。
- 事実がどうのはダメ
- 自然状態に戻れ、ではない
- 『社会契約論』とのつながりを意識して
ルソーの議論を読むと、おそらく真っ先に、「それって歴史的にどうなの?」と疑問に思うはずです。ここは世界史の知識があるのでどうしてもツッコミたくなるポイントですが、歴史的にどうのという批判は成り立ちません。なぜならルソーは初めに「ここで論じるのは仮説にすぎない」とハッキリ言っているからです。
仮説にすぎないと言っているひとに「それって事実なの?」とツッコむことは、三角形を描いてその構造を説明しようとしているひとに「その三角形ってちょっとゆがんでません?」と批判するのと本質的に同じことです。ちょっと生意気な小学生レベルの批判ですね。
また、確かにルソーは社会生活が人びとを堕落させると強く批判しています。しかしだからといって、社会生活を捨てて自然状態に戻れ(「自然に帰れ」)と言ったわけではありません。自然状態自体がひとつの仮説なので、そこに戻るも何もないからです。これを読み違えないことが大事です。
ルソーは主著の『社会契約論』で、そうした自然状態がもはや成立しなくなったときにどうすれば自由と平等を両立させることができるかという問題に取り組んでいます。『社会契約論』とのつながりを意識すれば、本書の中身がよりよく分かると思います。