ヴェーバーの『職業としての政治』をコンパクトにまとめました。
詳細解説はこちらで行いました → ヴェーバー『職業としての政治』を解読する
ポイント
『国家社会学』での議論と重複しているところが多いです。本書のオリジナルの議論は、政治家の素質や、心情倫理と責任倫理の関係に関するものなどがあります。
心情倫理と責任倫理は、要するに次のようなものです。
- 心情倫理=「後は野となれ山となれ」の義憤心
- 責任倫理=自分の行為の結果は自分が取るとする責任感
『国家社会学』と共通の論点
『国家社会学』と共通のポイントは以下の通りです。
- 国家とは正当な(legitimate)暴力行使を条件とした支配関係
- その正当性の根拠は3つ
- 伝統の権威
- カリスマの権威
- 合法性
- 現実の統治には行政スタッフ(官吏)と行政手段が必要
- 近代国家は、行政スタッフと行政手段が分離される過程と平行して発展してきた
- 政党間の争いは「官職任命権」をめぐって生じる
- かつて政党は名望家団体として運営されていたが、今日では近代的政党組織(マシーン)として運営されている(特にアメリカで)
- マシーンの登場は「人民投票的デモクラシー」の登場を意味する(デマゴーグが指導者に選ばれるように)
- 同時にボスが登場
- ボス=票集めの資本主義企業家
- ボスは明確な政治原則をもたず、票集めのことしか考えない
以下、本書オリジナルの議論について見ていきます。
本文
政治のために、政治によって生きる
近代国家は政治に携わる人間から行政手段を取り上げ、これを国家の所有とすることのうちで発展してきた。この過程で生まれてきたのが職業政治家。
職業政治家は、支配者が自分を補佐する政治家を必要としたことから生まれてきた。
職業政治家には2つのタイプがある。
- 政治のために生きる=副業として(政治団体の幹事など)
- 政治によって生きる=生活の収入源とする(官吏など)
ここで問題にしたいのは後者のほう。
官吏は政治を行うべきではない
政治が機関による「経営」として行われるようになるにつれて、官吏は専門官吏と政治的官吏に分かれてきた。
しかし官吏は政治を行うべきではない。政治は「責任の原則」のもとにある政治指導者が行うべきであり、官吏は政治指導者の手足となって働くべきだからだ。
政治家の素質
3つある。
- 情熱
- 「事柄」(解くべき問題)に情熱をもって取り組むこと
- 責任感
- 情熱に責任がともなうこと
- 判断力
- 虚栄心を克服し、「事柄」に客観的に取り組むための冷静な判断力
以上がともなって初めて政治家を作り出す。
権力感情に突き動かされず、ただ「事柄」を解決するために権力を用いること。権力そのものを崇拝せず、これを手段として用いることが重要。
権力は一切の政治の不可避的な手段であり、従ってまた、一切の政治の原動力であるが、というよりむしろ、権力がまさにそういうものであるからこそ、権力を笠に着た成り上がり者の大言壮語や、権力に溺れたナルシシズム、ようするに純粋な権力崇拝ほど、政治の力を堕落させ歪めるものはない。
権力を使う目的は各政治家の信念による
どんな「事柄」に権力を使うかは政治家の信念による。国内問題の場合もあるし、国際問題の場合もある。
なので責任が伴っていることが必要
政治家が取り組む問題が何であれ、そこに責任が伴っていることが必要。
ここにおいて政治と倫理の関係が問題となる。
心情倫理と責任倫理
倫理的な行為を心情倫理的なものと責任倫理的なものに分けて考えてみる。
- 心情倫理=動機の正しさが重要であって、結果は二の次。社会における不正に対する義憤心を保つことに責任を感じる
- 後は野となれ山となれ
- 責任倫理=行為の結果を誰かに転嫁せず、自分で引き受けようとする
- 動機よりも結果を重視
政治においては道徳的に問題のあるようなことも行わなければならない。心情倫理は魂の純粋さを保つことのうえに成り立つので、そうしたことを行おうとはしない。一方、責任倫理においては、重要なのは結果なので、目的を達成するための手段が道徳的かどうかは問題とならない。
ここで心情倫理と責任倫理は対立におちいる。
政治は責任倫理の世界
政治は責任倫理の世界。もし心情倫理が政治の世界にあり続けるなら、心情倫理が目指す「魂の救済」という目的が損なわれてしまうかもしれない。これは心情倫理にとってもよくないはずだ。
この「魂の救済」が純粋な心情倫理によって信仰闘争の中で追求される場合、結果に対する責任が欠けているから、この目的そのものが数世代にわたって傷つけられ、信用を失うことになるかも知れない。
政治は粘り強く、あきらめない人間にとっての天職
どのような困難に直面しようともあきらめず、それに立ち向かえるひと。政治はそうしたひとにとって天職となる。
自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が—自分の立場からみて—どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。